初めてグラッコウ氏と会ったのは約5年前、当時ニューヨークのファッション街に位置していた彼のショールームを訪ねる覚悟をようやく決めたときでした。それまでヴィンテージワークウェアのコレクターやディーラーとの出会いはどれも「挑戦的」であったので、アポイントメントをとるのに何年もしぶっていました。私が書く記事は主に企業そのものについてであり、必ずしもその企業が生産する洋服のことではないので、多くの場合何も商品を買わないことと合わせて彼らの立場からすると度々苦い思いをするようでした。
グラッコウ氏のショールームに足を踏み入れると、彼のコレクションは私が今まで見たこともないような宝物であふれていることに気づき驚きました。ヴィンテージ雑誌の広告などでしか見たことのない洋服を手に取りながら努めて平静を装っていました。グラッコウ氏は私の数多くの質問に丁寧に答えてくれ、私が彼のショールームを訪ねた主な目的であったオーバーオールのパイオニアであるSweet, Orr & Companyについての記事やアイテムを見せてくれました。購入することなくショールームを後にした私に対し、また来るように誘ってくれたときは驚きました。彼が言うには、「僕は20年間このビジネスにいるけど、このショールームで君のような質問をする人に会ったのは初めてだ。ほとんどの人は服には興味があってもその歴史には興味がないんだよ。」
初めて会ったときから数年、ヴィンテージワークウェアについてはジョンが私から学んだことよりも、私がグラッコウ氏から学んだことの方が多いと思います。それでも、数年前に彼がJeladoという日本のブランドと一緒に自分のラインを企画していると聞いたときは驚きました。その時私はグラッコウ氏のヴィンテージディーラー、コレクターとしてのヴィジョンの極めて限定的な一面しか自分が知らなかったことに気づきました。この一年、グラッコウ氏の私生活や仕事についての継続的な会話を交わしてきました。以下の文章はそれを編集したものです。


大学に入学し家を出る前の生活について教えてください。

ニュージャージー州のオーシャングローブで育ちました。元々は1869年にメソジスト教徒(注:規則正しい生活方法(メソッド)を推奨する厳格なキリスト教の一派)のサマーキャンプとして作られたビーチの近くの小さな町で、最初はテントの集まりだったのですが次第に人々が家を建てていき発展していったという歴史があります。町の一画はいまだに夏の間だけ滞在する人達のためのテントが並ぶ場所になっています。私が子供だったころはメソジスト教会が町の行政機関だったので、町の中でアルコールが販売されることもなければ、家で所持することも禁止されていました。土曜日の深夜は道路に車を停めてはならないというルールもあり、ほとんどの家はガレージを持っていなかったので近所まで車を走らせ一晩駐車しておく人が多かったです。高校生か中学生の頃だったか、オーシャングローブは隣町のネプチューンと統合され、厳格な法律は廃止されました。反対していた老人たち中にはビーチチェアに自分を鎖でつないだ上で町の入口のゲートで座り込みをして抗議をする人もいて警察が出動することになったこともありました。



ご両親のお仕事は何をされていたのですか?服飾業界に携わっていたのでしょうか?

母は公認看護婦として老人ホームで働いていました。当時としては珍しい個人所有の施設でした。父と母が出会った当時、父は空軍で飛行機の修理工として働いていたのですが、その後は電気工学の学位を取り、キリスト教に専念するまではベル研究所で働いていました。元々はあまり熱心でないユダヤ教の家で育ったのですが、聖職者としての勉強を始め私が産まれたころには地元の教会で土日はボランティアをしていました。当時の司祭が転職をしたときに父が代わりにその職につき、同時にベル研究所を辞めました。今は退職しています。
二人とも服飾業界に携わっていたわけではないのですが、母は裁縫も編み物もよくしていました。教会の資金集めのフリーマーケットで売るためにいつも何かを作っていましたね。よく印象に残っている出来事があります。10歳くらいのときにサッカーの試合でワシントンだったかヴァージニアだったかに行ったのですが、トーナメントが終わった後に両親に大きいショッピングモールに連れて行ってもらい、そこで初めてJamsというブランドの水着を見ました。とてもシンプルな短パン型の水着だったのですが、両親が水着に使おうと思っていた予算よりはるかに高い値段でした。こんな価格は馬鹿げている!これだったら私でも10分で作れる!と母が言うので、家に帰ったら作ってくれるよう頼みました。ゴッドファーザー(注:名親、代親。)に手伝ってもらって紙袋からパターンを作り、5&10に行き生地を買いました。それらをもとに母に水着をつくってもらったときは衝撃的でした。自分たちの洋服を作ってしまったのです、それもおそらく6ドル相当の生地だけで。またお店に戻り、違う模様の生地をいくつか買い、裁断や縫製を手伝うと瞬く間に4~5着の水着が手元にありました。この経験は自分にとって非常に強烈でした。



高校卒業後、プリンストン大学に進学したそうですね。何を勉強されたのですか?

ビールとレスリングを専攻し、副専攻は哲学と古代ギリシャ語でした!というのは冗談ですが、専攻は哲学でした。高校でラテン語を勉強したのでプリンストンではギリシャ語を勉強することにしたところ、翻訳をしたギリシャ語のテキストがほとんど神話や哲学であり、その中でも哲学に非常に興味を持ちました。そこで、哲学のコースを取り、気付いたら専攻していました。その時はまだ卒業後に何をするかなんて全く考えていませんでした。



プリンストン大学卒業後は何をされたのですか?

高学年になったころに、服飾業界で働きたいことに気づきました。プリンストンでの友達の一人に、ラルフローレンの甥のグレッグローレンがいました。グレッグの父、ジェリーはPoloのメンズ部署を取り仕切っていたので、グレッグにそこで自分ができることはないかを聞いたところ、一度父と会うといいと言ってくれました。面接を受けたところ、販売員としてお店で一年働くといいとジェリーに言われたのですが、当時はショップで働きたくなかったのでレスリングのコーチと代理教員として働きはじめました。しかし、一年経ったところで、服職業界で働く夢に一歩も近づいていないことに気付き、もう一度ジェリーに連絡しました。メディソンアベニュー店での面接を手配してくれ、Poloで働くようになりました。



これはRRLが始まったタイミングと同じですか?

いいえ、RRL が始まる一年前に働き始めました。



ということは90年代初頭ですね。

1992年の頃ですね。その年の半ばに道路の向かい側で最初のRRLストアを含むPolo Sportsストアが作られ始め、オープンの数か月前にスタッフ向けにショールームの見学会がありました。これは私にとって目を開かせる経験でした。ディスプレイ要員として向かいのPolo Sports店に移籍し、RRLの最初の2シーズンとヴィンテージアイテムがディスプレイされ売れていくのを見たのは非常に印象的でした。


これがヴィンテージ業界に入るきっかけになったのですか?


既に自分用にフリーマーケットでヴィンテージは買っていたのですが、まだ視野は狭く主に男性用の洋服にしか興味もなかったです。お店で働いていたときはPoloかヴィンテージの洋服を着てもよいということになっていたので、働いているときに着られるものを買い始めました。基本的にはもっとクラシックなものですね、ツイード、スーツやネクタイ等。その方が面白かったのと、単純に安かったということもありPoloの洋服とヴィンテージのアイテムを混ぜて着たりして楽しんでいました。ヴィンテージは買っていたのですが、今ほどマーケットを理解していた訳ではありませんでした。日本の状況やヴィンテージデニムについては全然知りませんでした。



そのうちFITに入るためにPoloは辞めたのですよね。RRLのインターンだったのはこのときですか?

はい、そうです。メンズウェアの準学士を取るためにFITに入学しました。このときはインターンとして、後にはデザイナーアシスタントとして働いていました。




そのときインスピレーションとしてヴィンテージアイテムを探したりするのも仕事の一部だったのでしょうか?

デザインディレクターがコンセプトを考え、その後私と一緒に写真のリサーチをしました。漠然とした考えやアイデアを伝えられ、私はそれに合う写真や服を探していました。RRLの地下に小さい倉庫があって、そこでいろいろ引っ張り出して参考になるものを探したり、ニュージャージーのヴィンテージアイテムを保管している倉庫に行きさらに探したりしていました。コンセプトのために彼が必要なものを集めている間も、ひっきりなしに方向性の指示は出されていました。ある日家に帰って、次の朝出勤するとなんと彼が一晩中コンセプトを練り上げていたことを知りました。それこそが私が本当に関わりたいところだったのに!その手順こそ一番面白そうだと思っていたのです。



コンセプトを練り上げるとは?

物理的に服や写真、小物を並べて一つのストーリーを作り出すことです。



その作業に携われる人物は会社の中でも限られていますよね。

そのうち辞めることになったそれが理由でした。商品の企画における関わりかたがすぐには変わらないということを知っていたので。




前にRRLで働いていたときにヴィンテージをレンタルしていたところがあるとおっしゃっていましたね。

David Outfitter’sのことですかね?デザインのコンセプトのために度々行っていました。上司にはオーナーは短気な老人だから注意しろと言われていました。外から見たらタキシードをレンタルするお店のように見えましたが、裏の倉庫と地下にはありとあらゆるヴィンテージのメンズクロージングが所狭しとしまわれていました。
オーナーのジャックの第一印象は本当に評判通りの人でした。棚に並んでいた箱は全部ぴったり収まるように特注のもので、ひとつひとつ紐で結ばれていました。私に何を探しているのか聞くとある棚まで連れて行き箱を開け、私が確認すると閉じて結んでまた別の箱を開けて、という風に目当ての物を探していました。何か仕事でジャックがその場を離れると、彼が帰ってくるまで待っていなければなりませんでした。
何回か訪ねた後のある日、ジャックと一緒に箱を物色していると電話が鳴り、私は一人残されました。5分待ち、10分待ち、それでも帰ってこないのでそのうち一人で彼がしていたのと全く同じように箱を開けて閉めていき確認していきました。彼が帰ってきたとき不機嫌になるかと思ったのですが、私が彼と全く同じように紐を結んで箱を閉めているのを見て、既にいくつかの棚を見たということが分かると「よし、続けていいぞ。何か必要だったら言ってくれ。」と言ってくれました。その後はいつも一人で探してもいいようになりました。時折近くに立って、ヴィンテージのビジネスがどうか聞いてきたり、昔の話をしてくれました。彼のやり方を尊重さえすれば実に気の長い方だったのです。
数年後、ジャックのお店の大家が契約を更新しないと言ったとき、彼から連絡をもらい立ち寄るように言われました。お店の転居をする気がないこと、引退する考えだということを説明され、倉庫にあるほとんどの物を見て買っていいと言ってくれました。あんなに何回も引っかけまわして見ていたにも関わらず、まだ一回も触ったことのない箱がたくさんありました。その後の数週間は素晴らしい経験でした。初めての経験の連続でした、信じられなかったですよ。ジャックからもらったアイテムはまだ多くを持っています。度々日本のお店で彼のタグがついている洋服を見ると思わず微笑んでしまいます。




独立して働いているのはどれくらいになるのですか?

FITを卒業した後はデザインで生計を立てたい気持ちが非常に強かったです。RRLでの仕事はあまり給料が良くなかったので一周間に一日だけヴィンテージのビジネスに集中する日をもらっていました。1998年に完全に独立したのですが、1994年からある程度の規模でヴィンテージのディーラーとして活動していました。




1999年にNYのオーチャードストリートにお店を開きましたよね。たまに人々がそれについてしゃべっているのを聞くとパンクバンドの伝説的なライブの話を彷彿とさせます、ほら、ライブ会場が200人規模だったのにも関わらず行ったと主張する人数が10,000人いるようなやつってあるでしょう。

(笑いながら)確かにたくさんの人が来ましたよ。お店を作って切り盛りするのは楽しかったですが、私は根っからの商売人ではなかったですね。お店を開いたばかりの頃の売り上げはとても低かったです。妻と一緒にジャージーシティのアパートに引っ越すはずだったのですが、それは最後の最後にできなくなってしまいました。他に選択肢もなかったので、よしじゃあもう店に住むぞ!みたいなテンションで三年間も妻と一緒にお店の裏で住んでいました。寝るためのロフトと、10畳くらいのスペースしかありませんでした。良く言っても冒険でしたね。




この頃に自分のブランドを立ち上げることを考え始めたのですか?

プリンストンでの最後の一年ですでに考え始めていましたが、どうやって実現させるかは皆目見当もついていませんでした。FITではたくさん考えていましたね。考えすぎてついに実行に移してしまいました。




新しいブランドJohn Gluckow’s Strongarm Clothing & Supply Co. はJeladoの後藤洋平さんと一緒に企画しているのですよね。二人はどのようにして会ったのですか?

日本で私のヴィンテージコレクションのセールを開いたときに初めて後藤さんとは会いました。良い友人でありお客様でもある知り合いの東京にあるお店でセールをしていたのですが、何回かやっていると度々洋平は訪ねてくれ彼のブランドJeladoのためのサンプル品を買っていきました。何年後か、ロサンゼルスでのInspirationショーで再び会いました。ロサンゼルスで少し一緒に過ごし、いろいろ似たところがあることを発見しました。彼はキックボクシングの選手で私はレスラーでした、どちらもかなりのレベルでの献身を伴わないとできない競技です。真剣にやって勝とうとしなければ、痛い目を見てしまいます。そして二人とも似たヴィンテージアイテムに反応しました。彼はクラシックなアイテムのリプロダクションはあまりせず、ユニークなアイテムを選ぶことが多かったです。リスクを取ることを恐れない人ですね。




まだキックボクシングをプロとして続けているのでしょうか?

はい、ただ昔ほどは試合をしていないようです。おそらく次かその次の試合が最後になるのではないでしょうか。いつ始めたのかは知らないのですが、キックボクサーになる前は、高校にいたか卒業してすぐの頃かヴィンテージのお店で働いていたそうです。その後、自分のヴィンテージのお店を開き、自分のデニムを作るようになりました。彼のジーンズは珍しいもので、当時にしてはスーパーヘビーな生地で作られており、人気も高くよく売れたそうです。他のブランドのアイテムも仕入れて売り始め、それが盛り上がってくると次第にヴィンテージの商品は売らなくなっていき、最終的には無くなりました。という訳で自分のジーンズを作り、他のブランドの商品を販売し、徐々に商品も増やしていきました。彼のブランドは多くのカテゴリーがありますが、参考にしているヴィンテージ品は基本的にどれも良いものです。




誤解を恐れずに聞きたいのですが、ヴィンテージからインスピレーションを得ている他のデザイナーと比べるとあなたのアプローチはどのように違うと思いますか?

正直に言うと自分のブランドと他のデザイナーの仕事を比べて考えることはほとんどしませんね。20年ヴィンテージ業界にいる間ファッションには全然興味を向けませんでした。ヴィンテージディーラーとして独立したころはニュークロージングを買うお金もなかったので次第にいつもヴィンテージを着るようになりました。今は、努めて他のブランドがやっていることを見ないようにしています。別にそれに誇りを持っているわけでもないのですが、ただ他のデザイナーから影響を受けずに自分のブランドを発展させたほうが私にとっては自然なのです。インスピレーションを受ける面白いものはただでさえとても多いのですから。私のアプローチが違うのであれば、それは単にヴィンテージについての知識や経験の量だと思います。働いているとき、私はいつも注意を細かく向けており、些細なディテールや作り方に気付き、それが歴史的にどういう流れや意味があるのかを理解しようとしています。




ひとつ私が気付いたところはあなたの特徴的な洋服の見方です。例えば、100年以上前のジャケットだとしても作りが雑であったり、かっこよくなければ価値はないのですよね。


ディテールにこだわりが無かったりね。




たった今気付いたのですがデザイナーとしての視点がロゴに書かれていますよね。Ancient and Modern Clothing. 二分法のようにも思えますが、あなたのクリエイティブさを表す面白い表現だと思います。Ancientの側面についてはたくさん話しましたが、Modernな側面についても聞きたいです。

そのロゴのデザインを考えていた頃、フリーマーケットで美しいブラックとゴールドの装丁の古いレファレンスブックを見つけました。1920年代のもので、コインのコレクターのためのものだったのですが、表紙のハゲワシがロゴのデザインにぴったりでした。テキストについてはどうせ自分の会社の名前に置き換えると思ってあまり注意していなかったのですが、よく見てみたらAncient and Modernというコピーに衝撃を受けました。それこそが私がしたかったことを端的に表していたのです。アメリカのワークウェアの唯一無二の特色を持った服を作りたかったのですが、現代でも気持ち良く着用できる形で実現したかったのです。他のヴィンテージ品や別のブランドの洋服ともよく合うものを作りたかったのです。しかし、全身揃えて着てもコスプレにならないように、ナチュラルなものが良いのです。リプロダクションはしたくありません。それが悪いわけではないのですが、私にとっては面白くないのです。パターン作りとプロダクションを繰り返しのように思ってしまいます。正確なレプリカを作るのが難しいのは理解しているのですが、もっとクリエイティブなことがしたいのです。アメリカの洋服の歴史はとてもユニークで豊かなので、それのコピーではなく、自分のブランドもその歴史に貢献できるのが理想です。